抵抗の群像
戦前の検事が戦後も取り調べ
たたかう河崎治さん
河崎治(はる)さんは1913年、父が横浜正金銀行の最初の勤務地の長崎で生まれました。その後転勤で大連に渡り、さらに転勤して黄河の済南市の日本人小学校、山東半島の青島市の女学校へ、そして東京の津田英学塾に入りました。そこで仲の良い友人から、大学生たちが勉強会をしているからと誘われ、2、3回参加しました。ところが治さんが思っていた文学に関する勉強会ではなくて、世の中の仕組みや、なぜお金持ちや貧乏人がいるのだろうかというような勉強会でした。
3月の春休み、突然、麹町署に連れていかれ、勉強会の大学生たちの名前など聞かれたのです。治さんは何も知りませんでしたから知らない、知らないと言っていました。すると手の指の間に鉛筆を挟んで絞めつけたり、椅子に座らせて男ども2、3人が靴のかかとで蹴り、治さんは膝が腫れあがってしまいました。
それでも10日くらいで帰されました。新学期が始まる頃、治さんはだんだん勉強会に魅かれるようになり、「経済学講座」とか「空想から科学へ」などを勉強して、だんだん世の中の仕組みがわかってきました。3年目の春、新学期が始まりましたが学校へは行かず、津田で国語や作文を教えていた河崎ナツ先生のお宅に泊めてもらい、工場前のビラまきや署名、同志間の連絡などの活動をしました。メーデーの時など、目の前で何人もの人が検束されていきました。そのうち、治さんは共産青年同盟関係の女性と連絡中にまた逮捕され、警察では早速「メガネを取れ」と言って殴られ、またいつもの足蹴りでした。亀戸署など何度かたらい回しされました。その頃、神戸の実家に退学届が届いたため、とうとう治さんは実家に連れ戻されました。
当時は職業婦人は蔑視されたものでしたが、なんとか手に職をつけて経済的自立をしようと、洋裁店に2ヵ月ほど通いました。ところがまた逮捕です。その時は髪の毛をつかんで床上に引き回すやら、また例の足蹴りでした。「その時ほど悔しい思いをしたことはなかった」と治さんは語っています。
その後、河崎寛康さん(後に同盟県本部会長)と結婚し、夫が勤務していた長岡の津上製作所の社宅に住んでいました。
1943年9月1日午前4時、5、6人の男たちが逮捕状をつきつけて夫を連れ去り、『大地』とか『風と共に去りぬ』など本箱から持って行きました。英語版『共産党宣言』や津田の時の英語版副読本などは置いてゆきました。
2ヵ月ほどは夫がどこへ連れて行かれたか全くわかりませんでしたが、夫の同房の男性がメモを届けてくれ、柏崎署にいることがわかりました。翌年8月になって初めて新潟の刑務所で夫と面会が出来ましたが、痩せこけた丸坊主の父を見た次女は、何もわからず泣いていました。終戦の年の公判で執行猶予なしの懲役4年で下獄の日を待つ身となりました。
終戦後、夫は日本共産党の長岡地区責任者として飛びまわっていました。
1950年、朝鮮戦争、レッド・パージ、「アカハタ」紙発禁というなかで、後継紙といわれた「平和の声」に警察の手入れが入り、自宅にいた共産党員2人と共に治さんも逮捕勾留されました。その時の取調べの検事が、なんと戦前に治さんを取調べた鬼検事と言われた小島という男だったのです。
治安維持法は立派に生きていたのです。治さんは洋裁の内職をしていましたが、その下請けの女性たちが、「このままでは生活できない」と交渉し、釈放させました。
(同盟新潟県本部発行『三人の女性の話』より要約 編集部)
2010年5月15日 不屈 №431