国は侵略戦争の反省にたって
戦後補償解決に政治決断せよ
近江谷昭二郎
戦後の国際秩序は、二度と戦争を許さないという決意のうえに成り立っている。ドイツ、イタリアも侵略戦争への反省のうえに成り立っている。自民党政権の退場で日本政治が新しい時期を迎えているいま、国は戦後補償解決の政治的決断をするときである。
▽「慰安婦」問題解決の立法化要求と大衆行動の前進。
▽中国、韓国の強制連行・強制労働事件の全面的な政治的解決へ国・企業は和解せよ。
▽中国遺棄毒ガス被害の国による謝罪・賠償が求められている。
▽シベリア抑留問題解決へ今国会での法案成立が求められている。
▽空襲被害者救済も東京地裁は立法解決とすべきとしている。
ここから、戦後補償をめぐる闘いの何を学ぶべきかを考える。
わが国の戦後補償問題は、長い年月をかけての裁判や大衆的要請行動などを通じて、今日ではその多くが立法化など政治的解決を求めるところに到達している。
ここからの教訓として、①戦後補償問題は、補償の問題であると同時に、補償に込められるべき政府の戦争責任を問う問題だということである。政府がこれに正面から向き合おうとしてこない根底には、戦争を侵略戦争と認めない無反省から国家の責任を避けてきた。一連の補償問題は国家による人道的犯罪であり、戦争責任を鋭く問うている問題である。
第二は、国に戦争被害事実を認めさせ、国家責任による補償実現には長期の粘り強い世論の結集が不可欠であること。
第三は、国民が自民党政権退場の審判を下し、日本政治に生まれた新しい情勢をとらえ、政府・国会議員等への働きかけを機敏に果敢に展開していくことである。
戦後補償の一環である「治安維持法犠牲者国家賠償法」の立法化を求める同盟運動も、戦後補償要求の闘いの到達と教訓を検討し、新しい情勢の下での可能性の追求が求められている。(本部副会長)
2010年5月15日 不屈 №431
3・15 4・16 弾圧を忘れるな
各地で記念集会開かれる
神山監督講演ほか3ヵ所で開く 北海道
北海道の3・15弾圧記念の集いは室蘭、札幌、岩見沢、旭川の四市で行われ、あわせて220人が参加しました。室蘭では12日、岐阜の竹中彰元師を映像化したDVD「戦争は罪悪であるー仏教者の名誉回復から」を観賞し、フリートーキングをしました。
札幌は14日、映画「鶴彬ーこころの軌跡」を見、この映画を作った神山征二郎監督の講演を聞きました。「鶴彬の堅固な志、社会の状況認識の深く確かなことに瞠目、多喜二といい鶴彬といい、この国にこのような若き英雄たちがいたことを忘れてはならない」との感想がありました。
岩見沢では15日、映画「時代を撃て・多喜二」を上映、ふだんの集会に見えない人も多く「大変感動」の声が寄せられました。
旭川も15日、旭川文学資料館の沓澤章俊調査員が講演、旭川出身のプロレタリア詩人今野大力の作品と生涯を語りました。
「反戦川柳人鶴彬」の講演会 青森県
3・15、4・16大弾圧記念集会は4月17日、同盟岩手県本部牛山靖夫事務局長を講師に招き、演題ー反戦川柳人「鶴彬」を語るーとして開催、45名参加しました。
講演に先立ち「『聳ゆるマスト』ー反戦兵士阪口喜一郎が残したもの」(DVD)が上映されました。
講演では、治安維持法下、川柳を武器に軍隊内でも反戦のたたかいいを不屈に進め、弾圧のなかで29歳の命を終わらせ、故郷を遠く東北盛岡のお墓に眠ることになった生涯が詳細に語られました。
弘前、下北支部からも参加し、「語り継いでいくことが大事という意味がよくわかった」「あの時代の活動家は命がけで活動していたんだ」などの感想。懇親会で一人入会しました。
多彩な3・15、4・16集会計画 新潟県
「3・15、4・16事件を語り継ぐ集い」を4月24 日、新潟市で行う予定です。集いのメインは、写真映像と音楽が入る①朗読劇「小林多喜二死す」②相沢寛新潟県同盟員による講演「治安維持法の復活を許してはならない」③加藤栄二県同盟員による講演「原菊枝(治安維持法犠牲者、講演者の発掘で顕彰)の『女子党員獄中記』について」④山本宣治の直筆「唯生唯戦」の展示と山本宣治がこの書を書くに至った経緯などのお話(直筆所持者・石田和夫氏)⑤新潟県内の治安維持法犠牲者を偲ぶお話(佐藤良夫新潟県同盟員)とその人々の写真と活動を記したパネルを二十枚ほど展示。など多彩な催しです。
専制政治への道を許すな 岐阜県
3月14日午後、岐阜市で開催した第11回3・15大弾圧記念学習会は65名の参加者があり、中央本部副会長増本一彦氏から「戦争は弾圧と手をつないでやってくるー治安維持法と横浜事件」のお話を聞きました。
講演は、2月4日の横浜地裁による実質無罪、刑事補償の支払い決定を出した後だけに、時宜を得た有意義な講演でした。
増本氏は、横浜事件が特高警察のねつ造による大規模な言論弾圧である。戦後の再審請求にも完全無罪を避けて「免訴」としてきたが、十数年に及ぶ犠牲者たちの苦闘と支援の努力で権力犯罪ー暗黒裁判が明らかにされた。これを機に人道に反する治安維持法の実態と、今も続くビラ弾圧など反共主義からはじまる言論・表現の自由弾圧=専制政治への危険を打ち破る国会請願運動を強調されました。
2010年5月15日 不屈 №431
顕彰碑探訪
非転向を貫いた 勝又松太郎の墓碑
昨年11月20日、同盟員で日本共産党五条市議会議員大谷龍雄氏とともに、五条市中之町在住の刃谷敏明氏の案内で、金剛山の南斜面に立地する西山墓地にある勝又松太郎のお墓にお参りすることができました。国賠同盟奈良県本部として、治安維持法犠牲者の事績を調査・研究・顕彰する一貫として実施したものです。
勝又は農民運動の活動家。3・15事件で逮捕・起訴され、刑期は2年でした。また、1932年の8・30弾圧事件でも検挙され、起訴は免れたが県下各署をたらいまわしされたと伝えられており、1938年11月10日、37歳で病死しました。
「春日庄次郎外98名治安維持法違反被告事件予審終結決定書」には、「本籍、奈良県宇智郡牧野村大字中之一六一番地、住所、同上、旧全日本無産青年同盟奈良県支部執行委員、勝又松太郎、明治32年12月生」(『現代史資料』みすず書房)と記されています。
昨年秋、大谷氏が勝又の縁故者である刃谷敏明氏を訪ねあて、お墓の所在を確認していたものです。
墓参の後、刃谷氏は、「私の祖母が勝又家の出です。長兄・松太郎とともに眠る亀次郎は次男の弟です。この墓石は三男の弟寛次朗が建てたものです」と語っておられました。
奈良県本部 田辺実
2010年5月15日 不屈 №431
時の焦点 NPT再検討会議
いまたけなわの「核不拡散条約(NPT)再検討会議」。1970年から25年期限ではじめられたNPT。当初からも1995年無期限延長をアメリカが強行した際も、当時の核保有5カ国の独占優位の差別的条約であり、核兵器廃絶に直結するものではないとして、国際世論は否定的でした。
すべてにわたってアメリカいいなりの日本政府も、調印はしたものの6年間も批准を回避しつづけました。もっとも日本政府の真意は、被爆国として核兵器廃絶を主張する立場ではなく、将来の核兵器開発・保有の道を閉ざすものとしての好核的な、日本核武装の魂胆からでした。しかし核兵器廃絶をめざして、あらゆる機会を活用しようとした国際世論と非同盟諸国や、同盟国も含むアジェンダ連合の、毎年の国連総会や5年ごとのこのNPT再検討会議の場での粘りづよい努力により、核不拡散にとどまらず核廃絶を指向する國際討議の場に、NPT再検討会議を昇華させたのです。
今日核問題を専門的に協議する公的な国際会議がNPT再検討会議以外ない現実的条件の中で、国際世論は、核保有国への核軍縮への明確な努力を求めたのです。
この道理ある国際世論は一度は実を結んで2000年の本会議では核保有国の核軍縮への明確な努力の実行の決議がアメリカをふくめ採択されました。しかしこの世界の貴重な歴史的到達点も、ブッシュ政権の核兵器先制使用政策と國際テロとの戦争政策により、2005年の本会議で、反古(ほご)にされてしまったのです。
あれから5年目。核兵器のない世界を唱えたオバマ政権にとって試金石のNPT会議。65億人類の死活的課題として、「核兵器廃絶国際条約の締結」と「2万数千発の核兵器を廃絶する政治的、工学的日程」を専門的に論議する国際機関や國際会議設定の採択が期待されます。(元)
2010年5月15日 不屈 №431
抵抗の群像
戦前の検事が戦後も取り調べ
たたかう河崎治さん
河崎治(はる)さんは1913年、父が横浜正金銀行の最初の勤務地の長崎で生まれました。その後転勤で大連に渡り、さらに転勤して黄河の済南市の日本人小学校、山東半島の青島市の女学校へ、そして東京の津田英学塾に入りました。そこで仲の良い友人から、大学生たちが勉強会をしているからと誘われ、2、3回参加しました。ところが治さんが思っていた文学に関する勉強会ではなくて、世の中の仕組みや、なぜお金持ちや貧乏人がいるのだろうかというような勉強会でした。
3月の春休み、突然、麹町署に連れていかれ、勉強会の大学生たちの名前など聞かれたのです。治さんは何も知りませんでしたから知らない、知らないと言っていました。すると手の指の間に鉛筆を挟んで絞めつけたり、椅子に座らせて男ども2、3人が靴のかかとで蹴り、治さんは膝が腫れあがってしまいました。
それでも10日くらいで帰されました。新学期が始まる頃、治さんはだんだん勉強会に魅かれるようになり、「経済学講座」とか「空想から科学へ」などを勉強して、だんだん世の中の仕組みがわかってきました。3年目の春、新学期が始まりましたが学校へは行かず、津田で国語や作文を教えていた河崎ナツ先生のお宅に泊めてもらい、工場前のビラまきや署名、同志間の連絡などの活動をしました。メーデーの時など、目の前で何人もの人が検束されていきました。そのうち、治さんは共産青年同盟関係の女性と連絡中にまた逮捕され、警察では早速「メガネを取れ」と言って殴られ、またいつもの足蹴りでした。亀戸署など何度かたらい回しされました。その頃、神戸の実家に退学届が届いたため、とうとう治さんは実家に連れ戻されました。
当時は職業婦人は蔑視されたものでしたが、なんとか手に職をつけて経済的自立をしようと、洋裁店に2ヵ月ほど通いました。ところがまた逮捕です。その時は髪の毛をつかんで床上に引き回すやら、また例の足蹴りでした。「その時ほど悔しい思いをしたことはなかった」と治さんは語っています。
その後、河崎寛康さん(後に同盟県本部会長)と結婚し、夫が勤務していた長岡の津上製作所の社宅に住んでいました。
1943年9月1日午前4時、5、6人の男たちが逮捕状をつきつけて夫を連れ去り、『大地』とか『風と共に去りぬ』など本箱から持って行きました。英語版『共産党宣言』や津田の時の英語版副読本などは置いてゆきました。
2ヵ月ほどは夫がどこへ連れて行かれたか全くわかりませんでしたが、夫の同房の男性がメモを届けてくれ、柏崎署にいることがわかりました。翌年8月になって初めて新潟の刑務所で夫と面会が出来ましたが、痩せこけた丸坊主の父を見た次女は、何もわからず泣いていました。終戦の年の公判で執行猶予なしの懲役4年で下獄の日を待つ身となりました。
終戦後、夫は日本共産党の長岡地区責任者として飛びまわっていました。
1950年、朝鮮戦争、レッド・パージ、「アカハタ」紙発禁というなかで、後継紙といわれた「平和の声」に警察の手入れが入り、自宅にいた共産党員2人と共に治さんも逮捕勾留されました。その時の取調べの検事が、なんと戦前に治さんを取調べた鬼検事と言われた小島という男だったのです。
治安維持法は立派に生きていたのです。治さんは洋裁の内職をしていましたが、その下請けの女性たちが、「このままでは生活できない」と交渉し、釈放させました。
(同盟新潟県本部発行『三人の女性の話』より要約 編集部)
2010年5月15日 不屈 №431