もがく貧困世代の「蟹工船」ブーム
「これって、今とまるで同じ……」。作家の雨宮処凛(かりん)さん(33)は昨年12月17日夜、プロレタリア文学作家、小林多喜二(1903~33年)の代表作「蟹工船(かにこうせん)」を初めて読み、涙を落とした。内容が、ワーキングプアの現状や自身が関係するフリーター労働運動と二重写しに見えたからだ。
半年後、雨宮さんの涙は奔流となった。新潮文庫の「蟹工船・党生活者」は今年、例年の47倍を超す23万7000部を増刷し、オリコンの文庫ランキング(5月19~25日)で11位と大健闘している。この動き、雨宮さんとほぼ同い年の私には、旧来の左翼の思想や運動を知らない世代が、時代の羅針盤を求めてもがく現状の反映に思える。
新潮社によると、「蟹工船」の新しい読者層は19~29歳が30%、30~49歳が45%。推計で5割強が30代以下だ。中でも、20代半ばから30代半ばは、平成不況のただ中で社会に出た世代である。派遣労働者などのワーキングプアが多い。いわゆる「ネット右翼」も、この世代が中心とされる。
「蟹工船」は1929年に書かれた作品だ。カムチャツカ沖でカニを捕り缶詰に加工する船の労働者が、過酷な労働条件に怒り、立ち上がる話である。雨宮さんは「蟹工船」を読んだ翌日、作家の高橋源一郎さん(57)と対談した。雨宮さんが語った感想に高橋さんも共感。この対談を今年1月9日、毎日新聞朝刊文化面(東京本社版)に掲載したのがきっかけになり、ブームが始まった。
雨宮さんは「今、『蟹工船』のように露骨な奴隷労働はないが、同じように逃げられない状況なら確かにある」と話す。雨宮さんによれば、派遣労働の現場では寮の備品にいちいちレンタル料を取られ、まともに給料が残らない例もある。寮の合鍵を使って、労働者が逃げないか部屋をチェックする会社もある。過酷な労働を「蟹工」と表現する若者もいるという。
フリーライターの赤木智弘さん(32)は「『蟹工船』の世界は、結婚している労働者がいるなど、今のフリーターより恵まれて見える面もある」とさえ言う。
それにしても、なぜ80年も前の小説が読まれるのか。批評家の大澤信亮(のぶあき)さん(32)は「貧困の現実に迫る言葉を持つ小説が『蟹工船』しかなかったから」と解説する。大澤さんによれば、戦後、労働や貧困を主題とした文学作品はほとんどなく、評論でも貧困は現実の「外の問題」としてしか扱われなかった。「貧困をとらえる言葉がなかったからこそ、若者の貧困問題は数年前まで『自己責任』のひと言で片づけられてきたのでは」(大澤さん)
興味深いのは、左翼文学の古典を読んでいるのが、小泉純一郎元首相の靖国参拝に熱狂したのと同じ世代でもあることだ。04年に東京で始まったフリーターらのメーデーに、かつて右翼団体にいた雨宮さんも加わり、今年は全国14都市へ広がった。年長者の中には、この世代が右から左へ極端に流れたと危惧(きぐ)する人もいるようだ。だが、この見方には、同じ世代の人間として違和感がある。
赤木さんは「私たちは、共感できるなら右翼でも左翼でもいいと思っている」と話す。そもそもこの世代は直接の左翼体験が、まずない。大半は浅間山荘事件(72年)の後に生まれ、自民党と社会党の「55年体制」の記憶すら怪しい人もいる。マルクスなどの思想もほとんど知らない。
一回り年上の苅部直(かるべ・ただし)・東京大教授(43)も「彼らは、上の世代が自分たちの抑圧感を理解せずに、きれい事を並べることへの反感をイデオロギーに結びつけてきた。その意味で、前に小林よしのり氏の漫画『戦争論』がはやったことと『蟹工船』のブームは近い」と見る。ただ、今の「左傾化」は「実際の悲惨な生活がある点が、歴史教科書問題の時と違う」と評価する。
では、「蟹工船」ブームが象徴する動きは、どこへ行き着くのか。苅部教授は「雨宮さんらの論者は、世代意識が強すぎたり、左翼的表現を嫌う人が多い上の世代の心情を知らない面があるように見える」と危うさも指摘する。そのうえで、「ホームレスや障害者など他の問題との接点も考えているようだ。雇用問題で、より普遍的な提言ができれば、他の世代にも味方が広がるだろう。彼らには問題提起をする力があると思う」と応援する。
苅部教授に同感だ。私も引き続き雨宮さんらの議論に注目し、紹介していきたい。貧困や雇用を社会全体で考えることは、どの世代にも有益なはずだ。一部が「団塊ジュニア」と重なり人数も多いこの世代の動向は、今後の日本の行方に大きく影響するだろうから。
記者の目:=鈴木英生(学芸部)
毎日新聞 2008年6月3日 0時03分
おはようニュース問答
若者の間で『蟹工船』大ブーム、なぜ
のぼる 小林多喜二の『蟹工船』が売れているんだってね。
陽子 若者にすごいらしいね。
のぼる 新潮文庫の『蟹工船』は今週あらたに五万部増刷を決めたそうだ。この二カ月で合計二十四万部だよ。
「それって蟹工?」
陽子 戦前のプロレタリア文学全盛時代に発表されて大評判を呼んだ。その時に売れた単行本は弾圧の目をくぐりぬけて半年で三万五千部も売れた。
のぼる 今の広がりも、国家権力の妨害がないとはいえ、驚きだ。おそらく『蟹工船』の歴史の上でも最大のブームだね。
陽子 蟹工船は北洋でカニを捕って船上で缶詰にした船。四百人近くが乗って、一度漁に出ると半年近く戻らなかった。小説は、船上での過酷な労働と虐待から、労働者がついにストライキに立ちあがるまでを描いているわ。それがいまの若者に受けるなんて想定外ね。
のぼる いまの派遣やフリーターの若者が『蟹工船』と同様の劣悪な労働条件におかれているということだよ。日雇い派遣で働く若者が悲惨な待遇を「それって蟹工じゃん」と言い合っているそうだ。
陽子 今年あった『蟹工船』青年読書エッセーコンテストも予想を上回る百通を超す応募があったそうよ。「『蟹工船』で登場する労働者たちは、私の兄弟のようにすら感じる身近な存在だ」と書いた人もいる。
多喜二作品の力
のぼる テレビで派遣社員の青年が『蟹工船』を読んで「共感を持てた」と言っていた。「自分で行動を起こすことが正しいことだと学んだ」と言っていたけど、そんなことを訴える小説はなかなかないよ。
陽子 小林多喜二は悲惨な貧困を描くことから出発して、貧困を生み出す社会のあり方を根本的に変えるたたかいを描く方向にすすんだの。自分も当時非合法の日本共産党に入党し、二十九歳で特高警察の拷問で虐殺された。だけど、多喜二の作品は不滅ね。
のぼる 今年は没後七十五周年だった。戦前ともに活動した手塚英孝さんの書いた伝記『小林多喜二』もあるし、もっと多喜二の生涯も知りたくなったよ。
2008年6月4日(水)「しんぶん赤旗」
蟹工船
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
蟹工船(かにこうせん)は、1929年に発表した小林多喜二作の日本語で書かれた小説である。いわゆるプロレタリア文学の代表的佳作とされ、国際的評価も高く、いくつかの言語に翻訳されて出版されている。
この小説には特定の主人公がおらず、蟹工船にて酷使される貧しい労働者達が群像として描かれている点が特徴的である。蟹工船「博光丸」の元になった船は元病院船の博愛丸である。
あらすじ
カムチャツカの沖で蟹を獲りそれを缶詰にまで加工する蟹工船「博光丸」。それは様々な出自の出稼ぎ労働者を安い賃金で酷使し、高価な蟹の缶詰を生産する海上の閉鎖空間であり、彼らは自分達の労働の結果、高価な製品を生み出しているにも関わらず、蟹工船の持ち主である大会社の資本家達に不当に搾取されていた。情け知らずの監督者である浅川は労働者たちを人間扱いせず、彼らは懲罰という名の暴力や虐待、過労と病気(脚気)で倒れてゆく。初めのうちは仕方がないとあきらめる者もあったが、やがて労働者らは、人間的な待遇を求めて指導者のもと団結してストライキに踏み切る。しかし、経営者側にある浅川たちがこの事態を容認するはずもなく、帝国海軍が介入して指導者達は検挙される。国を、すなわち国民を守ってくれるものと信じていた軍が資本家の側についた事で目覚めた労働者たちは再び闘争に立ち上がった。
再脚光
作者の没後75年にあたる2008年の日本では、新潮文庫『蟹工船・党生活者』が古典としては異例の27000部を増刷、例年の5倍の勢いで売れ、5月2日付の読売新聞夕刊一面に載った[1]。若者、特に就職氷河期世代に人気である。就職氷河期世代の多くは非正規雇用などの不安定労働者であり、ワーキングプアも少なくない。一流大学を出ても就職ができずに苦しんでいる者もおり、小林多喜二の捉えた世界観は今日の若者の現状と通じるものがあることを示している。